昨日のエントリを書きながら思ったこと。
昨日紹介したDirect Note Accessは、ツールだ。ツールから生み出されるものはやはり使う人次第で、いいツールを使ったからといっていいものができるとは限らないというのはよく言われることだし、僕も素朴にはそう思う。
だが、それはいつの世でも変わらないものだろうか。
なんて聞くと「そりゃそうだ!」と即答したくなるが、考えてみるとそうでもないかもしれない。
たとえばFlickrのInterestingnessなんかに出てくる色鮮やかで美しい写真のほとんどはPhotoshopなどで加工してある。 5分でできるような簡単な加工だなと分かってしまうようなものもあるが、僕などから見るとカメラがいいのか腕がいいのか知らんがとにかく美しいと思えるようなスゴ技のものも多いのだ。
問題は、もしかするとそれは割と簡単な加工なのかもしれないというところだ。
これは一種のディジタルディバイドだ。Photoshopを知らない人からすると奇跡に思える。でも多少なりとも使ったことがある人からすると朝飯前だったりする。
要するに、ツールは三流の職人を大量に二流に引き上げるが、同時に全体としての、あるいはピラミッドの底辺でのメディアリテラシー、あるいはアートリテラシーの高まりには限界があるかもしれないのだ。つまりツールが進歩するにつれ、一般の大衆は安い加工と手の込んだ加工を判別できなくなっていく可能性がある。僕が写真についてそうなっているのと同じように。
今はまだ音楽や3D映像については安いものと洗練された技術によるものの区別がつきやすい。だが画像・写真はその域を出つつあるかのように思える。
いずれ音楽についても同じ事が十分起こり得る。ツールが力を増すにつれ、素人は準素人と達人の区別がつかなくなる。
それとも、世の中と技術は併走し、いかにパワフルなツールが出ようとも人間のセンスはそれを判別した上で楽しめるように底上げされていくんだろうか。そう、たとえば料理にしても何にしても、準素人が家庭でできるレベルというのは技術の進歩に伴い上がる一方だが、やはり二流と三流の差というのは明確で、大衆はそれを区別した上で楽しんでいるのだ。
写真が特殊な例なのか、音楽も映像も造形もそちらに向かうのか。今はちょっと僕には分からない。音楽に関しては十年ぐらいで答えが出るかもしれない。